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出典:村上薫遺稿・追懐集 薫風
■日本人初の国際会長・L村上薫
1981年、アメリカ・アリゾナ州フェニックスで第64回国際大会が開かれ、L村上薫が65代目の国際会長に選出されました。日本はもとより、アジアから選ばれた初の国際会長でした。
「水と空気と平和がなければ生きてゆけない、という言葉があります。水も空気も人間が創ることは出来ません。神が与えてくれたものです。これは無尽蔵にある。だが、平和は人間のみが作り出すものであるにもかかわらず、こんなに少ないではないか。今なお人間が人間同士、生命を奪い合っているではないか。こんなばかげたことがあるでしょうか。私はいきどおりをもって現代に抗議する」
そう訴える村上会長は、テーマを「平和」に定めました。スローガンは、「ピープル・アット・ピース」。日本語で「みんなで築こう和の社会」です。
L村上は、京都府亀岡市の清和源氏の流れにつながる教育者の家筋に生まれ、新聞社から京都市教育課長に転じました。1950年には連合国総司令部(GHQ)の推薦で、戦後初の日米人事交流計画に基づいて渡米、その折に初めてライオンズクラブの存在を知ります。帰国後、京都市初の広報課長などを歴任。京都LCのメンバーとなりました。
64年、L村上は地区ガバナーに選ばれ、75年には国際理事に選出されました。請われるままに国内はもとより世界各国へ飛ぶという日々を過ごしました。精力的なその旅程は地球2周半に及び、ライオニズムを説く「行動の人」と呼ばれれるほどでした。
国際会長となったL村上は、更に多忙を極めます。全世界を歴訪する旅は、ライオンズクラブだけではなく、世界各国のリーダーの要請に応えるもので、ほとんどプライベートのない毎日となりました。会長に就任してからの1年間、L村上が京都の自宅で過ごしたのは、わずか14日。他はすべてライオンズの仕事に捧げるという、無私そのものの日々を過ごしたのです。
1982年(昭和57年)11月7日、国際会長退任からわずか百日余。村上薫前国際会長は忽然と逝ってしまいました。享年64。ライオンズに捧げた生涯でした。「ピープル・アット・ピース」という彼のテーマは、日本ライオンズならではの願いとして、今も世界のメンバーの記憶に残っています。